30代の私の旅=半ば義務のような

何の罪もない人々に起こった理不尽な出来事の数々

『メコンの風景その暮らし』(編集)

1987年 枯れ葉剤汚染地区を歩く(編集)ベトナム戦争時代米軍による枯れ葉剤(オレンジエージェント)が蒔かれた地域での死産や奇形の多発;水汚染調査を兼ねて出かけた。まだ国交がなかった時代タイから空路で入国。ツーズ病院ではベト・ドク(当時ドクは脳症で意識朦朧状態、このままでは2人の生命が危険と分離手術を考えらていた頃)との対面。ベンチェ省では枯れ葉剤散布地では沢山のホルマリン漬けの奇形胎児との対面。ダイオキシンを日本に警告したフォトジャーナリスト中村悟郎の案内で化学物質の人体への影響の怖さを知った旅の記録


『南アフリカの流砂』(著)

1991年8月 南アフリカ・アパルト法基幹法の廃止直後に南アフリカをANC(アフリカ民族会議)の案内で訪問し、見聞した。当時日本では反アパルトヘイト運動が健在だった。ヨハネスブルグのANC本部ではシリルラマポーザ書記長(現在南ア大統領)の話を聞いたり、マンデラの片腕のANC全国議長との握手が印象に残っている。「今、経済制裁を解除したらポーズだけ残って交渉の進展が進まない。最後までポットのお湯のコンセントを抜かないで」という話も。黒人居住地のソウェトやケープタウン郊外を案内して貰い貧富の差や暴力支配を感じた。肌の色の違いというだけで差別されたあとの人類の平等を勝ち取ったあとは・・(なかなか格差解消も進んでない)


『隠された職業病』(編集)

1993年 韓国 二硫化炭素中毒症の八代興国人絹の被災者と 輸出された日本の中古機器を使って被災した韓国・源進レーヨンの被災者の交流をサポート。日本では職業病はひたすら隠された。そのために二次被害を受けた隣国の労働者があった。さらにこの中古機械はC国に転売されたそうである。熊本においてもあまり知られていないCS2中毒症・・かってのレーヨン工場である興国人絹も今は名前は変わっている。

2013年11月25日 熊日新聞

人権を否定する最たるものは戦争だ。

2015年8月20日熊日新聞 読者のひろば から
2012年12月21日 熊日 読者のひろば
2014年12月23日 読者のひろば

2022年9月24日の新聞に『元最高幹部に終身刑・・カンボジア 虐殺のポルポト政権』という記事

 1975年から79年のポルポト政権下で行われた虐殺を裁く特別法廷(二審結審)で元国家幹部会議長のキュー・サンファン被告(91歳)に対する終身刑を支持する判決を22日に下したという新聞記事があった。何年前のことでも真実に目をつぶらないという姿勢の結果だ。これまでカンボジアへは2回行ったが、このことは重くのしかかってきた。様々書籍などをみてもその残酷さは許しがたい。S21などの記録は悲惨。