⽔俣のこと
2021 年ユージンスミス役で世界的俳優ジョニーデップが主演した「MINAMATA」という名の映画を私は熊本で観た。この撮影地が⽇本でなくて遠い外国であったことも印象深い。未だに⽔俣病が解決まで⾄っておらず、現地⽔俣市⺠の声も⼆つに分かれている。私のよく知る活動家でもチッソにはお世話になったと語る。⽔俣病多発地域では、被害者ばかりではなくチッソに働く⾝内も⼊り交じり複雑でもある。
すんなりと市⺠⼀同で、その後の「もやいあい」運動で融合された訳でもない。ラグビーはゲームが終わると「ノーサイド」と⾔えるだろうが、この場合は被害者が⽣きている限り真の和解や⾒せかけばかりの融合はないだろう。
画⾯では分からないが、地形や恋路島がよく分からない場所だった。湯堂の⼊り江での出来事など、その風景も物語も映画の上ではフィション(作られたもの)であるが、写真だけが事実。


 私が⽔俣病を意識したのは、⼤阪での学⽣時代のこと、⽇曜⽇は姉の電気⼯事屋さんで時々アルバイトしていた⽔俣病第⼀次訴訟の判決が出た頃で、⼯員の⼀⼈が「いいなあ補償⾦が⼊るのは」「俺も水俣病になったらよかった」なんて冗談と分かっているが、「そんなこと言ったって、被害を受けたら補償は当然」と反発した。あの頃が最初のこと20歳の頃だったろう。

その後 技師学校卒業の秋に受けた兵庫県の医療職・県職員中級試験を終え合格通知を⼿にしていたので熊本で⽣活する予定は無かったので当時は、水俣とは無縁なはずであった。が⼊職前の検査で腎機能が低下しているということで4月⼊職は正式に取り消しになった。

 当時夜学も一緒に行く予定だったものの⼊学辞退してサッサと熊本に帰ってしばらくの間 閉じ籠った。社会に出てバリバリと働き始めた同級⽣から取り残される焦燥感で 5 ⽉には職安で求職を始めた。たまたま熊日新聞では職安とコラボの求職コーナーがあってそれを観た 熊本保養院という精神病院から⾯接するという案内が届いた。パッとしない名前だったが まだ熊本市の郊外の⽊造の⽞関先を⼊って 平田宗男院⻑、O事務長や組合代表との面接でそれが水俣とつながることになったのはあとで分かったことだ。ここは当初、雰囲気はのんびりしていて私にピッタリかなと思っていた。

1975年6月10日熊本保養院入職。 翌年76年春には希望ヶ丘診療所転勤 翌年77年には水俣診療所へ転勤、僅か三年間で3回の入職と転勤。それから有床化した水俣協立病院を含め水俣暮らし10年。端っこで周囲を眺めているだけの足手まといの無能な放射線技師の私だった。

 この水俣診療所と協立病院は一般診療に加え、水俣病の診察・治療を専門の民間医療機関だった。水俣駅前に建設された診療所建設は多くの妨害にあってとても困難だったらしい。さらに有床化した病院は国道3号線の左右でチッソと対峙する形で建設された。医師確保も大変で水俣病患者さんも東京まで医者探しに行ってくださった。

 土曜午後・日曜日は掘り起こし検診に職員一同関わっていた。水俣病審査で棄却された人も多く、行政不服審査の代理人なったりして頑張っていた同僚も多い。私も参加したことがあるが聞き取り調査が主だった。

 毎年「水俣病現地調査」が行われていて、ある年、一度だけ 舞台進行を担当したことがある。新聞記事を集めてスライドを作ったり、バックの音楽を知人宅に上がり込んで選定したり、生まれて初めての経験だった。参加の医師や患者さん、関係者の声も中に折り込み、秒を追った。やっている時は夢中で終わったら気が抜けた。1985年7月のこと。メインテーマーは「不知火の子ら、そしてこの世に生まれ出なかった子らのこと。母として医師として」板井八重子医師の話を主題に。

 水俣には特別な才能がある方も多い。知り合った中には池尾寧という詩人もいた。シンガーソングライターの柏木敏治さんもいた。二十三歳から三十二歳まで、35年も前のこと。様々な人たちの交流もあった。口下手の私から喋り始めることはなかったが。

 そういえば、病院へ実習体験できた一人の学生はその後中村哲さんのペシャワール会の活動に参加していた人もいた。私と目と構えが違う素晴らしい多くの人たちと出会える場だったと思うのは水俣を出てから気づくことだった。その頃は水俣を早く出たいと北北東(熊本市の方向)へ帰ることばかり願っていたのだった。

水俣病を診断する医師の資格について不思議な案にモノ申す。2010年のこと

2010年6月4日 熊日新聞 読者のひろば から
2012年6月14日熊日新聞読者のひろば