(映画便乗タイトル)よろしくね!

最初はふざけた題名で真剣味は少しだったが、自覚症状がいっぱいだ。忘れっぽいことは生まれつきで、まあ世間からずれた考えもあって、これが私だといえたけど、最近はそう考えるのにも自信がなくなってきた。人生100年というが、私の場合はハンディがあるので随分手前で終了するだろうし、健康寿命も平均からずっと手前だろう。ボケることで棺桶には入るのが全然怖くなくなると思うのでボケることは我が援軍となることだろう。(2021年12月28日)

 この冬一番、こんな題名のドキュメント映画を観ようということになって、肩身が狭い。まるで我がことのように感じるのである。それと最近友達ががんに罹って死生観が変わった。そんな最近の句集の出版話があった。生きていたからには先には死がある。いかに生きるかが問題なのだ。最近は死を怖がるという臨死体験者の話も聴いた。人それぞれ、人様々だ。

 私が社会福祉士としての立場で成年後見の担い手から逃走したのは2018年、講義最終の家族調整など困難事例を反芻してからのことだ。無口で人見知りで、心配性で忘れっぽい、介護にもあまり感心を持たない私に取ってとても重荷に感じて結局 会への名簿登録を断念したのだった。で一番の原因はコミュニケーション能力とともに、対象者への責任が持てるだろうかというのが主因だった。(コミュニケーション能力の欠けたSWなんて不要な存在かも)

 遠からず私も死ぬ。死ぬことは恐ろしいことだが、それを薄めるのがボケることだと思う。私の生きて居るこの世界では人々は死ぬのが早いか遅いかの違いだけだ。怖いまま死ぬのは嫌だ。なんとなくあちらの世界へ移動する。その一番苦痛の少ない方法が生きて居る世界がゆっくりぼやけてくることだろう。たぶん父も母も世界がぼやけたままゆっくりあの世に移行したと思う。そのあとを追うだけだ。だからボケることが怖いことでなく自然な死を迎えられる大前提なのかもしれない。ボケることも自然なのだ。死を前にしたらボケないことが恐怖になるかもしれない。そんなことを考えている こんな私をどうぞ よろしく。

 

介護保険への関心も重要

2014/6/17熊本新聞「読者のひろば」