手ぬぐい先生
平田宗男先生は1910年1月10日生まれ、九州医学専門学校を卒業、1941年同校助教授、1943年応召、1945年9月陸軍中尉として復員。1945年12月九州大学より医学博士号の学位授与、1951年熊本保養院を開設。1976年菊陽病院院長
・・とあるがとても庶民的な先生で何か作業するときには手ぬぐいをズボンにぶら下げておられた。若いときは柔道に打ち込み、その柔道部の芳和会(Houwakai)という名前を医療法人の名前に付けるほどだ。復員後は免田町で医院を開業されていたが、その後熊本市の(当時は田舎だった)神水に精神病院を開業された。その後、昭和28年の白川大洪水での被災者支援、三池炭鉱炭塵爆発事故への救済支援などへ出かけ,病院職員全体として災害支援・職業病解決へ全力で取り組んでいた。
平田先生の偉業はそこから始まった。チッソが水銀を海に垂れ流した水俣病、八代興国人絹の工場で発生した二硫化炭素中毒症にも本来は国などの公的機関が救済に動くべきなのに、患者支援にいち早く対応してきた。支援だけでなく治療につなげるための臨床研究もおこなわれてきた。
私が1991年、南アフリカへ行ったあとの報告集「南アフリカの流砂」を先生に渡すと「南アから目を離しなすなよ」と助言された。だから30年後も必ず新聞では南アフリカの記事があったら切り抜くように心がけている。今日の話題(2021年12月14日)の新聞にはシリルラマポーザ大統領が新型コロナに感染して、現在症状は軽いということを目にしている。というように先生の命令を忠実に守っているところである。
個人的なことでは、入職前検査て私の腎臓が悪いということが原因で関西の県職員の採用を取り消され、熊本に帰り自宅待機していた。当時は治療法もなく途方に暮れていた。人生の出発点から悲惨だった。そうしていると自衛隊の勧誘にきた。あの家のもんが家でぶらぶらしているとでも通報されたのだろう。病気だから駄目と断るも、何とかなるからと言われたが、首を振らなかった、その後すぐに行動に出た。職安で仕事探しをして、ついでに熊日新聞に「職求む」欄があり、当時は職安を通じて(無料)広告が出せていたので私も載せてもらったところ、運良く熊本保養院の事務の方の目に留まったらしく、面接通知を貰った。当時は国鉄で小川駅から熊本駅へ、市内電車で熊本駅から八丁馬場へ。しばらく歩いて保養院に辿り着いた。平田院長、事務長、組合役員と面接。その時正直に身体のことを伝えた。そこでも検査をして、帰宅した。どうせ採用はないだろうという思いが半分だった。駄目ならまた次があるさと帰宅。しばらくすると採用が決まった。忘れもしない1975年6月10日からの出勤が決まった。あとで聞くと、採用して大丈夫だろうかと(今となっては知人の)当時大学病院にいたKさんに相談されたという。その人は「よかっじゃない」なんて軽く応えたと、最近教えてくださったが、人生の大転換期となった。常識ある管理者であれば、誰がリスクの多い病人を採用するだろうか。あの日、平田先生から採用して貰ったことで根無し草にならなかっただけでも今ではとても感謝している。その後はいつも仕事やめる、辞めたいとばかり云っていた私もいたが・・まああの日の「採用」がなければ、こんな風に振り返ることはないはずだ。
入職したら 精神病院という病院の放射線技師は仕事がほとんど無かった。そんなときはあてがわれた待機室で、外の風景を眺めたり、検査技師室を訪問したりして過ごす毎日だった。鉄は熱いうちに打てという言葉の正反対で、放射線技師としての腕は、なまってゆくばかりだった。時々待機室に来て平田先生は”まあこれを読みなさい"と新聞「赤旗」を置いていかれた。病院のトップが赤旗を薦めるなんて思いもしなかったが、右も左も分からないので言われたまま新聞を読んで過ごした。福利厚生はまあまあで、職員用の食堂を利用して独身寮に住むことになった。
先生の凄さは、様々な熊本の問題を医療の視点から全力投球されたことだ。その意志を受け継いだ後継者が続いている。



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