尊敬のカメラマン

私が生涯で出会ったカメラマンで、この人は凄いと思ったのは・・

中村悟郎さんだ。1987年中村さんの案内でベトナムへ初めて行った。詳細紹介はこちらで。(2002年の私のHPで他のリンクは切れています)

 私たちがベトナムへ行った時はベトナム戦争のあとで、まだ日本と国交がなかったので、一度タイで飛行機を乗り換えた。私たちは保育器を携えて、ベトドクの入院しているツーヅ病院へ向かった。

(八代市内を取材中の中村氏)

中村氏は日本に産まれたばかりの(足は2本、肛門は1つだった)二重胎児ベトちゃんドクちゃん(ベトナム戦争後6年経た1981年2月25日の誕生)を紹介し、催奇性を持つダイオキシン(ベトナム戦争中に米軍がまいた枯れ葉剤=オレンジエージェントに含まれていた)の害を一生懸命訴え続けたジャーナリストである。

熊本の取材の時、一度運転手を買って出て ご一緒したことがある。わくわくしながら中村さんを観察した。対象物に対して納得ゆくまでカメラのレンズを上下し、一瞬も逃さないぞという意気込みがわかる。レンズを通して社会を覗いておられた。

またあるときは市内のホールで講演されるときスライド係をした。その時、スライドの画像のピントがずれてしまった時、大きな声で中村さんは「そんな写真は撮ってない、ちゃんとピントを合わせて!」と叱られたこともありました。プロの写真家の画像への厳しさを感じたものでした。

あれから35年ベト・ドクの運命は変わった,我々の訪問翌年1988年ベトナムで二人の分離手術に中村さんが立ち会ったときに、成功の報を熊本まで送っていただいた。その後、脳症だったベトちゃんは2007年10月6日26歳で亡くなったが、グエン ドクさんは結婚し双子の子どもが出来て大きく成長しているそうです。

中村梧郎さんのベトナムとの関わりは別の取材現場も紹介されており「戦場カメラマン」(朝日文庫)にも記載があった。購入されお読みください。石川文洋氏の「戦場カメラマン」のp748ー749に中村梧郎氏が登場している  (下文)
内容は中国軍のランソン省侵入事件:中越戦争1979年3月

「ランソン市内で『赤旗』の高野功特派員が、中国兵の狙撃で死亡したのが三月七日の午後三時二十分だった。高野氏が倒れ、ベトナムの土に血をしみこませた道路の中央には「高野同志、この地で中国侵略者によって殺害される」という文字が板に書かれて立ててあり、その周囲には花束が置いてあった。私たちも高野氏の冥福を祈った。高野氏とはじめて会ったのは昨年の三月、カンボジア国境の取材の時である。高野氏は以前は語学留学生としてベトナムでの生活は長かったが、今度は『赤旗』特派員としてハノイに赴任してきていた。カンボジア国境アンジャン省の最前線や、タイニン省のカンボジア難民部落を一緒に取材したこともあった。 高野氏の強みはなんといっても、たくみなベトナム語を話すことで、ホテルの従業員や兵士たちと話し合っている様子をみると、大変うらやましかった。民衆の声がいつでも、どこでも自由に聞くことができるからである。これは外国取材の場合、大変重要なことである。そしてもうひとつの大きな強みは、人柄の優しい親しみやすい性格であろう。だから、ベトナムの人たちとも気軽に話をすることができる。ハノイのようにあまり娯楽施設がなく、日 本人の数が少ないところでは、ハノイヘ来た時に旧友に会うのが大きな楽しみであった,今度も高野氏と一緒にハノイ特派員たちの共通したファンである倍賞千恵子のレコードを聞きながら、酒を飲むことを楽しみにしていたが大変残念だった。 ハノイ側からランソン市内に入るために、サィホ峠を下ってキイクウン川の内側を通って市内に入る。三月五日、中国軍は撤退を発表していたが、ランソン周辺には七日になってもまだ、中国軍は残っていた。しかし、市内のはずれにあるランソン駅の近くのチュア・ティエン山の洞穴の周辺には、数人のベトナム兵がいて、その後方の陣地には多数のベトナム軍がいた。サィホ峠のふもとのベトナム軍陣地から、駅の近くのベトナム軍陣地までは、市内を通れば四、五キロではないだろうか。そこで二台のジープに分乗した高野氏とジャパンプレスの中村梧郎氏は、フルスピードで市内を走りぬけた。その時迫撃砲弾が、走るジープの近くに落ちたので危険を感じた一行は駅の近くのチュァ・ティエン山の洞穴へ三時間半ぐらい待機して、またもとの道を戻ろうとした時に、自動小銃の一斉射撃を受けた。 ハノイで会った中村氏に同乗 していたベトナム通信の記者の話によると、それは二ヵ所から撃ってきたという。一ヵ所は川向こうの正面にあった陣地から、一ヵ所は高野氏の倒れたすぐ五十メートルほど先にある人民委員会の建物からという。七日にもまだ市内に残っていたのである。なぜ市へ入る時に撃たれなかったのだろうという疑問に対し、川の向こうのタムタン山に中国軍の市内を見張っている場所があって、中国軍はそこから二台のジープが入るのを見て、帰ってくるのを待ち伏せていたものだという。中村氏のジープは故障で百メートルぐらいおくれたが、同時に攻撃をうけたため運転手が重傷を負っている。」
 おことわり:「 」内 全文 石川文洋「戦場カメラマン」より引用。

毎日新聞2000年12月1日「人」欄に紹介記事がありました。23年前のもの。今でも情熱は変わらない様子です。

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